1. 難波宮跡とその周辺

なにわのみやあととそのしゅうへん

上町台地北端の開発は古墳時代の中ごろに始まりました。朝鮮半島の技術で焼かれた須恵器の窯跡や、全国に例を見ない大規模な倉庫群の発見がそれを物語ります。続く飛鳥~奈良時代には「難波宮」が築かれました。数十年間の発掘成果から、中心部分は難波宮跡公園として史跡整備が進められています。また、宮殿に接する大阪歴史博物館では、地下に保存された宮殿遺構や出土品などをご覧いただけます。

ゾーンのスポット解説

  • 1 . 前期難波宮の「並び倉」(難波宮跡)

    ぜんきなにわのみやのならびぐら

    前期難波宮の北西部、後の「大蔵」にあたる大倉庫群にあった珍しい高床倉庫です。「並び倉」とは、東大寺の正倉院のように、複数の倉をつないで一体に屋根をかけた格式の高い倉です。難波宮の場合、3棟(または4棟)をつないで長さ48mにもなります。大阪歴史博物館の北にタイルと植栽で遺構が表示されています。

  • 2 . 前期難波宮の朝堂院は十四朝堂(難波宮跡)

    ぜんきなにわのみやのちょうどういんはじゅうよんちょうどう

    飛鳥・奈良時代の宮殿である難波宮は同じ場所に前・後2時期の宮殿がつくられました。朝堂院とは朝廷の儀式や国家行事などをおこなう重要な区画です。中央が広場になっていてそのまわりに政府高官や貴族が執務する朝堂という建物が配置されています。この場所で東第1堂が発見され、前期は朝堂が14棟以上あることがわかりました。

  • 3 . 前期難波宮の朝堂院東第4堂

    ぜんきなにわのみやちょうどういんひがしだいよんどう

    前期難波宮の政治・儀式のための建物の一つで、朝堂は掘立柱構造で東西に7棟ずつ14棟が確認されています。東第4堂も他の第3堂・第5堂と同規模で、東西2間(約6m)、南北12間(35.4m)の南北に長い建物です。柱の抜取り穴に焼け壁が入っているので、『日本書紀』に記された朱鳥元(686)年の火事で焼けたことをしめしています。

  • 4 . 日本最古の万葉仮名文木簡の発見(難波宮跡)

    にほんさいこのまんようかなぶんもっかんのはっけん

    「皮留久佐乃皮斯米之刀斯□・・」と書かれた木簡が、前期難波宮(652年完成)建設のための整地の下から出土しました。「はるくさのはじめのとし・・」と読む説が有力で、和歌の上の句の一部と考えられます。一字一音の万葉仮名を使い、語順どおりに文章を書いた最古の例で、日本語の発展を知るための画期的な発見です。

  • 5 . 前期難波宮の泉施設

    ぜんきなにわみやのいずみしせつ

    飛鳥時代難波宮の内裏西方官衙の北西隅にある谷につくられた湧水施設です。規模は約8m×5mで、深さは1mほど。谷に湧き出す水を集め、利用するため造られたのでしょう。まわりに水を汲み出すための木枠が組まれ、北西部で石組み溝が付けられています。

  • 6 . 前期難波宮石組み溝

    ぜんきなにわのみやのいしぐみみぞ

    飛鳥時代の難波宮内裏西方官衙から北西へのびる谷に造られた泉につけられた石組み溝です。北西に延びており、途中から蓋石が載せられて暗渠になっていました。花崗岩の自然石を利用し、蓋石には重さ1.8tもの巨石が用いられています。泉施設で湧き出した水を他にも供給していたのでしょうか。現在NHK大阪放送会館地下に保存されていますが常時公開はしておりません。

  • 7 . 前期難波宮の水利施設(遠景)

    ぜんきなにわのみやのすいりしせつえんけい

    飛鳥時代の難波宮内裏西方官衙の西にある谷に造られた、湧き水を集める泉施設とそこから北西に延びる石組み溝が見つかりました。宮廷で用いる水を供給するとともに、重要な儀式の場にもなっていたと考えられます(東から撮影)。

  • 8 . 前期難波宮泉施設の木枠1

    ぜんきなにわのみやいずみしせつのきわく

    飛鳥時代の難波宮内裏西方官衙の西にある谷に造られた泉施設の中に、木で組んだ枠が見つかりました。湧き出した水はここから汲まれたのでしょう。いくつかある木枠のうち、これは北東側のものです。

  • 9 . 前期難波宮泉施設の木枠2

    ぜんきなにわのみやいずみしせつのきわく

    飛鳥時代の難波宮内裏西方官衙の西にある谷に造られた泉施設の中で見つかった木組みの枠です。湧き出した水はここから汲まれたのでしょう。この木枠は南西側のもので、ほかにもいくつかの木枠がありました。

  • 10 . 飛鳥時代の木簡(難波宮跡)

    あすかじだいのもっかんなにわみやあと

    現在、大阪歴史博物館とNHK大阪放送会館のある敷地で行った調査で、谷に湧く泉を利用した施設と石組みの溝が見つかり、そこから墨で字の書かれた木札(木簡)が出土しました。1点は両面に2行にわたって字がありますが、のちに人の横顔を表現した形代に転用しています。ほかに「謹啓」・「山部王」と書かれた木簡もありました。

  • 11 . 前期難波宮の土器

    ぜんきなにわみやのどき

    飛鳥時代の難波宮内裏西方官衙の西にある谷から出土した土器。前期難波宮の造営期のもので、7世紀中ごろの年代が与えられる。土師器・須恵器の食器や壺・甕などがある。飛鳥時代の土器は大阪歴史博物館の常設展示で多数展示しています。

  • 12 . 前期難波宮の東八角殿

    ぜんきなにわのみやのひがしはっかくでん

    飛鳥時代の前期難波宮朝堂院の北部で、内裏南門の東西に平面八角形の建物と、これを取り囲む複廊が見つかっています。八角形の建物は三重に柱を巡らせ、使われた柱も太いので、重層の楼閣風建築と推定されます。複廊に囲まれた重層の建物は難波宮を訪れた外国の使節の目にも、荘厳に映ったものでしょう。

  • 13 . 前期難波宮の西八角殿

    ぜんきなにわのみやのにしはっかくでん

    前期難波宮は西暦645年に、孝徳天皇が難波宮に遷都して造営した難波長柄豊碕宮と考えられています。中国の宮殿をモデルにしたわが国で最初の本格的な宮殿です。中心となる内裏とよぶ区画の東と西の両側に配置した八角形建物は楼閣建築であったとおもわれます。宮殿をより立派に飾る目的で建てられたのでしょう。西八角殿跡には建物をイメージできる柱が復元されています。毎年5月初ごろには白や紫の藤の花でなごみます。

  • 14 . 前期難波宮の「朱雀門」

    ぜんきなにわみやのすざくもん

    難波宮跡公園から南へ100mあまりの地点で、前期難波宮の「朱雀門」(宮城南門)跡とそれに取り付く回廊の跡を調査しました。門は東西の柱間が5間で約23.5m、南北2間で約8.8mです。柱の痕跡は直径80㎝前後でした。回廊は中央に間仕切りのある複廊という形式ですが、宮城の南面がずっと複廊だったわけではなく、途中から一本柱塀になります。

  • 15 . 「朱雀門」の火災を示す柱穴

    すざくもんのかさいをしめすはしらあな

    飛鳥時代の難波宮「朱雀門」の柱穴の一つで、柱痕跡の周囲の土が赤く焼けしまっています。火災の際に柱が土中の部分まで焼けたためで、火の勢いのすさまじさがうかがえます。『日本書紀』に記された天武天皇朱鳥元(686)年の火事で焼けたものと思われます。飛鳥時代の難波宮の建物は、多くがこのように火事の証拠を残しています。

  • 16 . 前期難波宮の東朝集殿

    ぜんきなにわのみやのひがしちょうしゅうでん

    大坂市立聾学校の東の道路で行った調査で見つかった南北に長い建物です。その後、宮殿の中心ラインに対して西の対称となる地点でも同様の建物が見つかり、これらの建物の南北の長さは50m以上であることがわかりました。他の宮殿の例から朝堂院の南に置かれた「朝集殿」と考えられます。

  • 17 . 前期難波宮の東方官衙

    ぜんきなにわのみやのとうほうかんが

    飛鳥時代の難波宮内裏・朝堂院の東方にあった、一本柱塀によって区画された総柱建物を含む掘立柱建物9棟以上からなる建物群です。この官衙の東部に五間門のある塀で区画された楼閣風の建物が見つかり、注目されています。飛鳥時代の宮殿跡に見られる朱鳥元(686)年の火災の痕跡は、ここではありません。火災を免れたか、焼失以前に取り壊されていたのでしょうか。

  • 18 . 前期難波宮の朝堂院西第6堂

    ぜんきなにわのみやのちょうどういんにしだいろくどう

    1995年度に難波宮跡公園の南部で、飛鳥時代の難波宮朝堂院西第6堂の調査を行いました。第6堂は朝堂院の中央南寄りにある、東西に長い建物です。このときの調査では、東西約30m分の掘立柱が見つかっていますが、1978年度の調査の柱穴とひとつながりであることがわかり、東西約41m以上に復元できます。これは南の第7堂よりも長く、特異な構造です。

  • 19 . 前期難波宮「並び倉」の金製品

    ぜんきなにわのみやのならびくらのきんせいひん

    飛鳥時代の難波宮西方官衙にある最も立派な「並び倉」の柱の抜取り穴から出土しました。金の薄板を凸凹をもった芯に巻付けたもので、装飾品の一部と思われます。芯の材質は不明です。並び倉は宮殿の正倉と考えられ、当時、ここは宮殿の「大蔵(おおくら)」と呼ばれていたとされています。この金製品は大阪歴史博物館の常設展示でご覧いただけます。

  • 20 . 上町谷窯の発見(難波宮跡)

    うえまちだにようのはっけん

    「上町谷」と呼んでいる埋没谷の斜面で、5世紀前半の須恵器窯2基が見つかりました。2基とも朝鮮半島から生産技術が渡来した当初の「初期須恵器」と呼ばれる段階のもので、全国的にも類例が少なく、貴重な成果です。当時の先端技術を駆使した陶器生産がなぜ上町台地で行われたのか、今後の解明が待たれます。

  • 21 . 法円坂発見の古墳時代の建物群(法円坂遺跡)

    ほうえんざかはっけんのこふんじだいのたてものぐん(ほうえんざかいせき)

    16棟の高床倉庫群は5世紀前半と推定され、全国で発掘された古墳時代の倉庫群で最大のものです。総床面積は1,400平米以上です。真北に合わせて2列に並べるなど、規格性に富みます。瀬戸内海と畿内中心部をむすぶ物量の拠点、上町台地の北端に中央政権が設置したもので、国家の成長過程を示す格好の資料です。

  • 22 . 40年来の謎が解決(難波宮跡)

    よんじゅうねんらいのなぞがかいけつ

    国史跡難波宮跡は、大阪市内でも最も密に発掘調査が行われている遺跡ですが、それでも未解決の課題が多くあります。そのうちの1つとして、難波宮西部では、1967年の調査で建物か塀かわからない柱穴がみつかっていました。40年の時を経て、2008年の調査でこの柱穴が奈良時代の東西方向の建物の西端にあたることが確定できました。

  • 23 . 難波宮の鬼瓦からわかること(難波宮跡)

    なにわのみやのおにかわらからわかること

    後期難波宮の屋根を飾った鬼瓦には3条の凸線が描かれています。奈良時代の鬼瓦は鬼面文が主流なので、とても特徴的な瓦です。外郭築地の西側の発掘調査で見つかった鬼瓦は、調査地で見つかった区画の築地の屋根を飾っていました。これは、大極殿など宮殿の中心部で使用された鬼瓦とはサイズや細部の特徴が異なり、建物によって瓦を使い分けていたことが分かりました。鬼瓦は大阪歴史博物館の常設展示で見られます。

  • 24 . 後期難波宮の大極殿跡

    こうきなにわのみやのだいごくでんあと

    1969年に調査された奈良時代の後期難波宮の中心建物です。東西約42m、南北約21m、高さ約2mに復元できる基壇の上に礎石を置き、9間×4間(東西35.2m、南北14.8m)の瓦葺きの立派な建物です。丹塗の柱と白壁でかざり、内部には政治や儀式の時に天皇が出御する、高御座(たかみくら)が設置されていました。

  • 25 . 後期難波宮の朝堂院回廊の切り石暗渠

    こうきなにわのみやのちょうどういんかいろうのきりいしあんきょ

    奈良時代の宮殿の中心部である朝堂院東北部で、大極殿院回廊と朝堂院回廊の接続地点の南約2mのところで見つかりました。凝灰岩の切石を積んだ東西方向の溝です。底・側・蓋石を組み合わせて回廊の基壇の下に埋置されたもので、西端上部を壊しているので、回廊を改修して幅を狭くしたこともわかりました。

  • 26 . 後期難波宮の五間門

    こうきなにわのみやのごけんもん

    奈良時代の後期難波宮の中心部の西側、中軸線から158mの位置に、一本柱の塀が南北に196m続き、その中に2つの五間門を設けています。正面が6本の柱で5間に仕切られます。五間門は重要なところにしか使用例が見られない門なので、この門の西側は格式の高い施設が置かれた地域と考えられます。

  • 27 . 後期難波宮の蓮華・唐草文軒瓦

    こうきなにわのみやのれんげからくさもんのきがわら

    奈良時代の後期難波宮の大極殿院・朝堂院地域の建物は瓦葺きで、重圏文瓦が中心です。一方、蓮華・唐草文の瓦がまとまって出土するのは、朝堂院の西側で塀と五間門で区画された一帯です。これらの瓦は吹田市にある七尾瓦窯で焼かれ、難波宮まで運ばれたことがわかっています。大阪歴史博物館の常設展示でこれらの瓦を見ることができます。

  • 28 . 後期難波宮の朝堂院東第2堂

    こうきなにわのみやのちょうどういんひがしだいにどう

    1997年度に難波宮跡公園の東部で、後期難波宮の東第2堂の調査を行いました。基壇の高まりはほとんど削られていましたが、中世の耕作土の下に凝灰岩や瓦を含む地層があり、その地層を取り除くと基壇の裾周りの凝灰岩地覆石の抜取り跡が確認できました。基壇の北側と東西側の一部がわかり、幅は約15mで、東西に1箇所ずつ階段があります。

  • 29 . 後期難波宮の外郭築地塀の瓦

    こうきなにわのみやのがいかくついじべいのかわら

    奈良時代の後期難波宮内裏西側の外郭築地に当るところで、南北に並んだ瓦列が発見されました。これらの瓦列は軒瓦が上下逆を向き、文様のある面を西に向けて折り重なって出土した。西側には土壇状の高まりも観察されました。ここに瓦葺きの築地塀があり、屋根の瓦が崩れ、折り重なったまま埋もれたものでしょう。

  • 30 . 後期難波宮の鴟尾

    こうきなにわのみやのしび

    鴟尾は瓦の一種で、まだ難波宮の所在が不明だった1950年代にここで見つかったことから、周辺に瓦葺きの立派な建物(宮殿)があったと考える根拠になったものです。全体の形は不明でしたが、近年葡萄唐草文の小片が見つかり、柏原市太平寺廃寺とよく似た葡萄唐草文鴟尾であったことがわかりました。奈良時代の後期難波宮の建物の一つを飾っていたのでしょう。この鴟尾は大阪歴史博物館で展示中です。

  • 31 . 後期難波宮の朝堂院東第3堂

    こうきなにわのみやのちょうどういんひがしだいさんどう

    1996年度に難波宮跡公園の東南部で、奈良時代の後期難波宮の東第3堂の調査を行いました。基壇の高まりはほとんど削られ、礎石の痕跡は確認できませんでしたが、基壇の裾周りの凝灰岩地覆石の抜取り跡や瓦の分布から、基壇の東西幅は約16mで、東西に1箇所ずつ階段が付くことがわかりました。階段は調査していない北側にも、もう1箇所ずつあると考えられます。

  • 32 . 後期難波宮の朝堂院南門

    こうきなにわのみやのちょうどういんなんもん

    公園の南端で、後期難波宮の朝堂院南門およびそれに取り付く西回廊を調査しました。後世に大きく掘り返されて基壇の高まりはほとんど失われていましたが、基壇の裾周りの凝灰岩地覆石の抜取り跡や瓦の分布から平面形を知ることができました。南門の基壇は東西約27mで、北辺中央の約13.5mの部分が北側へ突き出しており、階段の跡と考えられます。